大変久しぶりの更新で申し訳ございませんでした‼︎
ほぼ毎日槍練習ができて、すごく嬉しいです‼️
改善、研究、試験、の繰り返しをして、身体操作の同調、呼吸、重心移動、姿勢を意識して、いかに疲れず槍を操作するかがテーマですね。
寝る前や起床後に練習。できる時は帰宅後、夕飯食べた後です。
今回は、ざっとし過ぎですが、
高橋泥舟の紹介だけさせてください。
自得院流槍術の名家山岡家の次男として生まれるが母方の高橋家の養子となる。
達人だった兄山岡静山から槍術を学び、高橋泥舟もまた、海内無双→天下無双の意味。と言われる。
兄が27歳で急逝したため(多分修行のし過ぎ)門徒の小野鉄太郎→後の山岡鉄舟が養子に。
21歳で幕府講武所槍教授。
25歳で槍術師範兼奥詰両番上席奥詰取締役という立場に。
そして、徳川慶喜に差添で上京して、浪士取締役兼師範役を命じられる。その時、朝散大夫従五位下伊勢守に叙せられる。
鳥羽伏見の戦いで敗戦した旧幕府軍は無血開城し、慶喜は水戸へ移るため泥舟が護衛する。
🔴琳瑞和尚の法話を聞くため、足繁く通い、法話を槍の鍛錬修行に活かした。高橋泥舟が行った「仕上げの行」と言われる。
🔴山岡鉄舟の借金を返すため、自分の信用=顔を担保にお金を借りた。
🔴勝海舟から、「槍一つで伊勢守までの仕上がった男さ。最近じゃああんな人は見かけないね。」と言わしめたのは超有名な話。
🔴講武所にいた時、同僚の槍師範の弟子で脛払いが得意な人物がいた。彼は講武所の師範達から節度がない、試合上のルール違反だ、と言われていた。
しかし、そこで立ち上がったのが高橋謙三郎だ。
高橋謙三郎が先に脛払いして勝ったんですよ❗️誰も勝てなかったのに。
🔴旧幕府軍が負けて徳川家を廃止する交渉するため、薩摩の西郷隆盛のもとへ高橋泥舟を派遣しようとする。が、
江戸は不安定な社会状況でやはり慶喜の警護がどうしても必要であり、慶喜にものすごく頼られ、信頼されていた。だから山岡鉄舟が代わりに派遣される。
最後の徳川慶喜のもとで、槍使いが関われたことがとても誇らしい。